イエスの復活は、弟子達を大人の信仰者として成長させました。聖霊の働きを信じ、肉の欲との戦いに勝利する喜びと希望を与えました。聖霊の実が実るように助けてくれるのです。イエスと弟子達のつながりを考えて見ましょう。イエス様は、まず弟子達を孤児とはしない。と言われます。もしあなたがたがわたしを愛するなら,あなたがたはわたしの戒めを守るはずだ。逆にわたしの戒めを保ち,それを守る人は,わたしを愛する人ですという言い方もされました。またわたしを愛する人は,わたしのことばを守りますとも言われました。それは「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互いに愛し合うこと,これがわたしの戒めです」と言われたことによります。
キリスト教界の歴史の中で、イエス様からいただいた愛は、各種の施設、孤児院、病院、
等の現代では福祉施設として発展し、現在では当然の施設として定着し、キリスト教とは関係なくても事業は営まれています。愛には応答があります。愛には相手があります。その愛の関係は、成長するし前進もします。その基は.弟子たちが戒めを守りイエスを愛することです。それは助け主が、我らのそばに呼ばれた者で,弁護者、仲保者です。まさに親が子供を育てるようなものです。親は子供の成長を、共に生きる事で見守ります。あなたがたを捨てて孤児にはしませんとイエスが約束し、十字架の死に至るまで共にいて下さり、今も共にいてくれるのです。しかしこの世の信仰は御利益主義です。受ける利益により、信仰も変化します。損する信仰は誰れもしません。教会の奉仕だとか、献金だとがで信仰の尺度とする事がしばしばです。見える部分だけを強調し自己中心的になります。ことばでは謙遜にしますが、共にやっていけないとか、レベルが違うとか言って切り捨て、その実自分の権力や地位や名誉にのみに執着してしまいます。はじめは純粋な気持ちで始ますが、社会のしがらみが最終的には利害関係の中に引き込んでしまいます。
本当に価値のあるものは何でしょうか。心を寄せ合い、互いにいたわり合い、許し合う、主にある家族としての関係は成り立たないのでしょうか。イエス様は、わたしはあなたがたのところに戻って来ると約束をしてます。助け主を派遣し,いつまでも共におらせるという約束です。復活の主として顕現してくれました。「わたしが行って,あなたがたに場所を備えたら,また来て,あなたがたをわたしのもとに迎えます」と,再臨において成就する約束もくれました。そのイエスが共にいて下さる。共に生活の全領域を支配して下さっている喜びを感謝を持って受け入れよう。私が父の内にいるのです。この世では悩みがあるが、しかし私はこの世に勝っていると宣言されたイエスと共に居れる感謝をしよう。
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