博多教会

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私が主に内にいる

04/27/2008

イエスの復活は、弟子達を大人の信仰者として成長させました。聖霊の働きを信じ、肉の欲との戦いに勝利する喜びと希望を与えました。聖霊の実が実るように助けてくれるのです。イエスと弟子達のつながりを考えて見ましょう。イエス様は、まず弟子達を孤児とはしない。と言われます。もしあなたがたがわたしを愛するなら,あなたがたはわたしの戒めを守るはずだ。逆にわたしの戒めを保ち,それを守る人は,わたしを愛する人ですという言い方もされました。またわたしを愛する人は,わたしのことばを守りますとも言われました。それは「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互いに愛し合うこと,これがわたしの戒めです」と言われたことによります。
キリスト教界の歴史の中で、イエス様からいただいた愛は、各種の施設、孤児院、病院、
等の現代では福祉施設として発展し、現在では当然の施設として定着し、キリスト教とは関係なくても事業は営まれています。愛には応答があります。愛には相手があります。その愛の関係は、成長するし前進もします。その基は.弟子たちが戒めを守りイエスを愛することです。それは助け主が、我らのそばに呼ばれた者で,弁護者、仲保者です。まさに親が子供を育てるようなものです。親は子供の成長を、共に生きる事で見守ります。あなたがたを捨てて孤児にはしませんとイエスが約束し、十字架の死に至るまで共にいて下さり、今も共にいてくれるのです。しかしこの世の信仰は御利益主義です。受ける利益により、信仰も変化します。損する信仰は誰れもしません。教会の奉仕だとか、献金だとがで信仰の尺度とする事がしばしばです。見える部分だけを強調し自己中心的になります。ことばでは謙遜にしますが、共にやっていけないとか、レベルが違うとか言って切り捨て、その実自分の権力や地位や名誉にのみに執着してしまいます。はじめは純粋な気持ちで始ますが、社会のしがらみが最終的には利害関係の中に引き込んでしまいます。
本当に価値のあるものは何でしょうか。心を寄せ合い、互いにいたわり合い、許し合う、主にある家族としての関係は成り立たないのでしょうか。イエス様は、わたしはあなたがたのところに戻って来ると約束をしてます。助け主を派遣し,いつまでも共におらせるという約束です。復活の主として顕現してくれました。「わたしが行って,あなたがたに場所を備えたら,また来て,あなたがたをわたしのもとに迎えます」と,再臨において成就する約束もくれました。そのイエスが共にいて下さる。共に生活の全領域を支配して下さっている喜びを感謝を持って受け入れよう。私が父の内にいるのです。この世では悩みがあるが、しかし私はこの世に勝っていると宣言されたイエスと共に居れる感謝をしよう。

05/02/2008 12:31:27

大人の信徒

04/20/2008

 愛をもって互いに仕えるように、キリスト者と教会は主から命を受けたのです。
それは神がキリストにある「自由を与えられるため」です。律法の精神は「隣人を自分のように愛する事」です。割礼などキリストの恵み以外のものに頼って,神の恵みを無にする者にパウロは厳しく対決してきました。神の恵みによる自由を、放縦な生活を送ることで「肉の欲望」のとりこになる生活を戒めます。「肉の願うこと」「肉の行ない」で神から与えられた自由を放棄したりしないようにです。聖霊の助けによって「愛をもって互いに仕えあう」事を積極的に勧めます。「肉」は「御霊」と対立します。肉の働きは神の恵みを無にし自己中心的に生きる生き方になります。肉の働きから離れて、御霊の実を結び「キリストの律法」に従うようにしなくてはなりません。御霊によって歩むというのは「愛をもって互いに仕える事」です。聖霊ご自身の導きによる生に従うことです。自分の全生活、全生涯をもって神の恵みに応答し続けていける恵みに生きることです。一本の木が一つの場所にとどまって時間をかけて実を結ぶように,キリスト者各自がかけがえのない固有な存在として教会全体の中で位置を与えられ,全体とのかかわり,時の経過の中で成長させられ、御霊の実を結びます。それは必然的に肉(自己中心的な生き方)との闘いとして現れます。しかし、イエスキリストの十字架は我らをその肉の関係から断絶させてくれました。最後の勝利は主イエスキリストにあります。私どもの生涯は日常生活の中での肉の欲を巡る戦いでものありますから、聖霊ご自身の内的働きによる、キリストにある自由を生きる事が出来るのです。パウロが勧めるように,主にある訓練を通し,共に祈りあい行進し続け,日常生活全般にわたり御霊の実を継続的に結ぶものであるように、虚栄を張らずに謙遜に助け合いながら祈りあいましょう。隣人を自分のように愛する自由に生きるか、自分の為になるように隣人を愛する自由に生きるか!

04/26/2008 08:44:17

テイベリア湖畔

04/13/2008

復活のイエスに出会ったにもかかわらず7人の弟子たちガリラヤ湖に戻り漁師の仕事にします。想像される理由は、主の派遣を無視した。イエスを失った喪失感と裏切りの恐怖から、日常性への埋没で逃避しようとした。そのような行為や努力は限界がありすぐに希望がなくなるものです。懸命に一晩中漁をしますが1匹もとれませんでした。根拠のない努力は失望に終わるのです。夜明けの岸辺に復活のイエスが立たれるが,弟子たちにはイエスであると気づかなかった.しかしイエスはその弟子達に声をかけられのです。主との出会いは,復活の主に出会う者が最初はそれと気が付かなかったと同じです。
経験を大切にする漁業ですが、努力も全てをかなぐり捨てて、イエスの命令に従って網を下ろすしかなかった。ところがおびただしい魚がとれたのです。イエスの弟子たちはその人が主であることを認めます。とれた魚の数は153匹です。これには古来から様々な解釈がされた。宣教によって獲得される人々があらゆる種類の人に及ぶと.また聖霊の賜物と考えると。神の恵みはイエスの側からの祝福です。恵みは備えられるのです。さあ来て,朝の食事をしなさいという主の言葉に,誰であるか尋ねる者はいませんでした。
主のいない日常性は失望と不安と恐怖に満ちているのです。しかし、主と共にある日常は喜びと充実した感謝に満たされる。食後,ペテロはイエスから3度にわたって、わたしを愛しますかとの質問を受けます。これらのことを,すなわち漁をすること以上に、イエスを愛するか。即ち日常性の意味の中身を問われ、生きるも死ぬるも主の為。人生の最大の目的が主と共にある事を確認しています。我らの人生が主によって備えられた道に沿ったものでありたいし、常に主と共に、隣人と共に分かち合え感謝出来る生活でありたいです

04/19/2008 15:56:03

イエスの平安

03/30/2008

復活した日曜日の夕方,主は弟子たちにも姿を現れた。キリスト教会が日曜日を「主の日」と呼び,この日に集まって礼拝を守ることは,復活の主の弟子たちへの顕現と関係している。弟子達に現れたイエスは息を吹きかけました。「息」は霊の命です。アダムの誕生は土くれに神が息を吹き込まれて命をえました。イエスが生きた命、即ち神の命が死をも突き抜けて弟子達に注がれたのです。弟子達に新しい神の命の持ち主として生を与えられました。心臓の鼓動とは別の命、心臓が止まっても生きる命が与えられたのです。命に生かされた,教会はその愛を惜しみなく与え続けてきたし、命に生かされている愛の業に怠けた事がないのです。「友のために命を捨てる,これよりも大きな愛はない」神の命に生きる者の大切な使命が与えられたのです。と同時にイエスの罪の赦しの業が弟子達にも与えられました。この日教会の役割は、この弟子たちに与えられた権威が引き継がれていると言えます。では許される罪は何でしょうか?イエスが十字架にかけられた後、弟子達が怖くて部屋に閉じこもっています。即ち閉じこもる。鍵をかけると親といえども踏み込めないのです。自分が正しい、周りが悪いとの態度を悔い改めない限り、その門は開きません。
弟子達の恐怖はユダヤ人の攻撃だったでしょう、と共にイエスに対する恐怖だったのではないでしょうか。裏切り、捨てたイエスが甦って尋ねてきたらどうなるか?
イエスは彼らの中に立たれ,平安を与えられたのです。
イエスは,恐怖のただ中にある弟子達の元に来て下さったのです。
平安があるように。不安の反対、本当の平安がキリストによって与えられた平安です。それは安心でしょう、喜びでしょう。まさにキリストの到来は、死の不安、死の恐怖からの解放でした。死んだ人間が生き返ったのです。たとえ心臓の鼓動が消えても生きるイエスキリストに与えられた命です。トマスへの顕現によってその様子が語られています。
再び復活の主が現れ,トマスに十字架の傷跡を示されます。十字架の傷跡を見,それに触れなければ信じないと断言していたトマスは,イエスの「信じない者にならないで,信じる者になりなさい」との呼びかけに,「私の主.私の神」と呼応しました。イエスを神であると明確に告白するトマスの告白を私たちの告白としたいです。

03/31/2008 17:21:17

イエス様の復活

03/23/2008

イエスの遺体が墓の中にはないことを語り,間接的にイエスの復活を物語る「空の墓物語」です。ヨハネの福音書では、復活の日の朝,日曜日の朝に墓を訪れたのはマグダラのマリヤだけです。空の墓を発見したマリヤは,ペテロとイエスの愛弟子のところへそのことを告げに行きます。二人の弟子が墓へ来ました。イエスの頭に巻かれていた布切れは,亜麻布といっしょにはなく,離れた所に巻かれたままになっていました。これはイエスの復活を間接的に示しています。しかし、彼らはイエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を,まだ理解していなかったのでそのまま家に帰ります。聖書の復活を理解しない人は、元のところへ帰って行くだけです。
マグダラのマリヤが再び墓に来て、どうする事も出来ない状況で泣くのみです。しかし彼女が見たものは,ペテロたちの見たものとは違いました。マリヤは墓の中にイエスがいるのではないかとのぞき込んだ時に、ふたりの御使いでした。そこで復活のイエスに出会ったのです。しかし、それがイエスだとは分かりませんでした。復活の現実は、悲しみをもたらします。死の現実の確認を迫ります。悲しみの中で生きている現実です。全ての事が目がかすんでよく見えなくなるのです。身近な人の死は本当にショックです。何日間はいや思い出すたびに、自分が見えなくなりなります。マリアは復活のイエスが
後ろに立っていたのです、マリヤはその姿を見ました,でもそれがイエスであるとは気付かず園丁だと思います。イエスの死という事実が余りにも強烈で,イエスがよみがえって姿を現すなど思いも及ばなかったのかもしれない。あるいは復活のイエスの体は栄光の体だったので,それと認識することが出来なかったのかもしれません。
しかしイエスの呼びかけにマリヤは目を開かれます。イエスの呼びかけは,ただそこに誰かいるという認識から,復活の主を信じる信仰へと目覚めさせます。イエスの呼びかけ、イエスが示されたご自身に応え気づく事が信仰です。いかなる優しい言葉も、愛情も、復活の主を見る事は出来ないのです。私の名を呼ばれるのです。死ぬべきこの身が復活の主に呼び止められる時にのみイエスを見る事が出来ます。イエスは希望であり、喜びです。パウロはロマ書6:4で「 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」 と言います。即ち「死」が「生」となり、永遠の命に生かされた者として、今の生を輝せることが出来るのです。永遠の命に触れるのです。しかしイエスはマリアに「わたしにすがりついていてはいけません」と言います。復活のイエスは私たちが触れるものではない、ましてつかむものでもない。ただイエスの御言葉に呼び止められ、つかまれる時に、復活の喜びと希望のイエスです。すなわち,父のみもとへ帰ろうとする復活のイエスのわざを妨害してはならないのです。謙遜に復活のイエスの御言葉に耳を傾ける信仰生活でありたいです。

03/29/2008 21:43:36

十字架の道

03/16/2008

イエスは弟子たちと共にとられた最後の食事の席での告別の説教を終え,エルサレム市 中を出て東のほうへ下って行かれた。ケデロンの川筋はちょうどエルサレムとオリーブ山の間にある谷間で、オリーブ山にはイエスがしばしば弟子たちと会合された園があったのです。その園をゲツセマネという名で呼んで、共観福音書では最後の晩餐の後,ゲツセマネの祈りの記事があります。最後の晩餐の場から姿を消したユダは,イエスを売り渡す為に、一隊の兵士と,祭司長,パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて,ともしびとたいまつと武器を持って,ユダヤの役人に加えてローマの一隊の兵士と「千人隊長」と共に来たのです。それはあたかも過激な熱心党員を逮捕するかのようでした。
イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられました。
イエスは、だれを捜すのかと問われ,ナザレ人イエスをとの答に,自らわたしですと答えられました。このイエスの答は「私がそれだ」という意味で、嵐の海上で、弟子達が混乱している時、ご自分を示すために言われた言葉です。人間最後の時、責任が問われる時、最後に望んだ時、お金も、名誉、地位も役に立たないのではないでしょうか。ありのままの私が示されるのです。人が最後の責任を取る時にありのままの自分で入れでしょうか。
最後の責任を取れないがために、責任を人になすりつけたり、言い訳をしたりします。誠実な人としてイエスは神の御旨の中に従う事によって神のご計画を示されたのです。それは十字架のイエスは人の罪を担い、救いを受ける者が生きてイエスの証人となるように、「あなたが私にお与えになった人々はその一人も失われなかった」と証言します。それは逮捕する者たちが、あとずさりし,そして地に倒れると言う,神の名を語られるイエスの権威を現しています。
また大祭司のしもべマルコスに切りかかるペテロを制止します。ペテロは勇気を出して出来ること、以前イエスに何処へもついて行くと言った手前、武装した一軍と、小さな剣、
ではあるが立ち向かわざるをえなかったのでしょう。しかし一時的な情熱や錯乱で剣を振るっても無意味であり、自分流の権力は破れるものです。後に「イエスを知りません」という卑屈な態度に変わるしかないのです。過信の勇気や、自己保全の臆病者は、自分が中心しかないのです。イエスの勇気は小さな剣で敵に立ち向かうのではない、興奮的な勇気でもない。卑怯に早変わりする偽の勇気でもないのです。本当の勇気とは神の意思に従う勇気です。主の杯を飲む勇気です。父がわたしに下さった杯を,どうして飲まずにいられようかと述べるイエスの発言に勇気の頂点を見ます。十字架の道は真の神に従う道です。

03/20/2008 14:45:32

一粒の種

03/09/2008

神の計画は不思議なもの、パウロが異邦人へ伝道始めた時、その道はすでに用意されていた。その道は使徒言行録16章で夢に現れるのです。異邦人がイエスのもとへ来るのは,神の恵みが異邦人を通して広められると事が諸国の民への言及であります。イエスはかねてより、囲いの外にいる他の群れのためにも羊飼いとして命をささげることを語っておられます。その恵みの中で現在の基督教があります。
イエスの栄光の時は十字架と復活と昇天によって示されます。従って,イエスはご自分の死について語られたのです。一粒の種のたとえを用います。人の求める栄光とはこの世の権威、権力、喜ばしい事、うれしい事、勝利の勝者の栄光です。それは自分の出世と自分の身の安全です。しかしイエスは一粒の種が死に、命を捧げる事によって、多くの命が与えられる事を知らしめます。「自分の命を愛する者はそれを失い。この世で自分の命を憎む者は永遠の命に至るまでそれを保ち続ける。誰でも私に仕える者は私に従ってきなさい。そうすれば、私のいるところ、私の奉仕者である。」
種粒は一つです。地に蒔かれる。死ぬ十字架のイエスキリストのみが必要です。真に十字架に従う者は一人です。その犠牲は決して無にされません。損失とはなりません。イエスが十字架から復活されたからです。真の勝利者として、死より復活されました。故に喜んで仕える事が出来ます。私たちの人間関係の中で、責任がどう取れるか、泥をかぶると言う言葉があります。あなたはかぶれますか?
高句麗末期の大将軍に大ジュンサン将軍がいました。その息子の大祥榮が、強大国唐の捕虜になります。息子救出の為に、旧知である敵軍の総大将ソリンギ将軍に息子の救出を依頼するのです。ソリンギ将軍はでジュンサン将軍が、その名誉をかなぐり捨て、敵の将軍の前で土下座して泣きながら頼む姿に、むせびます。何故に自分を捨ててまで息子救いのか、そして息子を救う為なら親は一切を捨てることが出来ることを知ります。神様はその愛する私たちを救う為に、御子を十字架に付けてまで救おうとされるその愛を示されました。まさに受難節のこの時その神の愛を心に刻み、イエス様が一粒の種として地に落ちて死なれる出来事に心を向けなくてはなりません。

03/13/2008 17:31:37

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